◆ 不登校からみえる社会 ◆

 この文章は、息子たちの不登校体験に基づいています。
 1998年秋、HP「青い空は」に6回に分けて書き込みました。その時ありがたくも、ご自分のH Pへの掲載を申し出てくださった方がおいででしたが、近々自分自身で立ち上げようと考えて いたため、申し出を辞退しました。しばらくして今度は「パープル・ページ」のdropさんが、掲載 を申し出てくださった時には、HP立ち上げの気持ちもしぼんでいたために、申し出を受け、ま とめて掲載していただきました。その間に書き足し、9回分になりました。
 dropさんがHPを閉じられたあとは、虹の架け橋さんが引き取ってくださり、さらに「セルフ・ アサートのページ」へと引き継いでくださいました。みなさん、ありがとう。ようやく自分のHPをもつ気になりました。これからもよろしく。
 ここにアップするにあたり、見出しを整理し、誤植を直しました。     2002.04.08
                                 

  − 目 次 −
                       

不登校(1)とらえ方の変化
不登校(2) 不登校は病気か
     不登校(3) 辛いことから逃げている
不登校(4) 医師のスタンス

     不登校(5) 価値観を変える・変えない
     不登校(6) わたしを変えた三つの言葉
学校の現実(1) 期待と失望
  学校の現実(2) 担任との対立

少年法改定論議に欠けるもの

 
 
☆ 不登校(1) とらえ方の変化
 不登校に限らず、自分とは異なる考えをもつ人に自分の考えを理解してもらう
ことは、結構大変なことです。こどもが不登校の渦中にいる場合、親は子どもへ
の配慮が最優先で他人への働きかけをする暇などないでしょう。でもそういう中
で子どもを・親を元気付け、社会に対して不登校の実態を知ってもらうべく働きか
けてきたのは、「登校拒否を考える会」全国ネットだと思います。

 日本で不登校が医学の世界に登場したころ(1950年代)、学校恐怖症という名
が付けられました。そしてその原因としては、その子本人に問題であるとずっと
考えられていました。文部省は、まず1971年、登校拒否の要因は@「本人の性
格異常」という見解を発表しました。

 次に1983年、本人の性格にA家庭の養育態度が絡み合って生じるとしまし
た。1990年になると、依然として本人の性格をあげるものの、B学校での出来事
がきっかけとなることもあるとしました。

 そして1992年、現在元気に通学している児童生徒も、様々な要因が作用して
登校拒否に陥る可能性を持っている、つまりC登校拒否はどの子にも起こり
うるという見解を打ち出しました。文部省がこのように見解を変える裏には、「考
える会」を中心とする親たちの粘り強い努力があったようです。Aのころの親た
ちは、専門家から、「過保護だから」「愛情が足らないから」「夫婦仲が良すぎる
から」「夫婦仲が悪すぎるから」「離婚したから」など言いたい放題のことを言わ
れていたそうです。親たちはそれらを総合して、専門家といえどもわかっていな
いんだという結論に達したそうです。こうした先輩たちの努力によって、不登校
も市民権を得るようになりました。

 しかし、文部省が見解を改めても、それが学校現場に浸透するまでには、十
年以上かかるという言い伝えがあります。これはいまでも有効らしく、不登校に
対して「本人や家庭に問題がある」と断定する教員はまだまだ多いようです。こ
どもにいろいろ働きかけてみても再登校しない場合、教員は自分の働きかけが
適切でなかったとか、そもそも学校というシステムに問題があるのではないかと
は考えないのでしょうか。子どもや親のせいにすれば自分は楽ですけどね。
                                                                              
 
 
☆ 不登校 (2)不登校は病気か
 あるサイトへの書き込みで、不登校児に対して、「『心の病気』と闘っている」
と記されていました。息子も養護教諭から、「心の病気」と言われました。不登校
って、病気なんでしょうか?

  @ 95年3月、NHKTV『きょうの健康』〜不登校と生体リズムの異常〜とい
  う番組で、熊本大学医学部小児発達学・三井教授が、不登校児を診察した
  結果から次のように言っていました(わたしなりに要約すると)。
    「子どもたちは、学校や家庭で、『勉強して良い学校へ入らないと、良い
   生活ができない』などと不安をあおり立てられている。そこへ持ってきて、
   教員との関係や友人との関係で悩みもある。部活や塾通いでの疲れもあ
   る。こうしたストレスがつのると、脳が本来の働きをしなくなる。脳を休めるた
   めの機能が働かなくなる。記憶や思考の機能も働かなくなる。
    脳の血流量を調べてみると、極端に少なくなっている。2,3ヶ月休養し
   たあとまた調べると、かなり回復している。
    こうしたことから、ストレスの解消法を見つけると同時に、疲れたら休む。
   勉強でスランプに陥ったら、まず休むことを心がけよう。」
  A 94年11月、東京での講演会。ある政令指定都市の適応指導教室スタッ
  フをされた方の体験談。
    「子どもたちは、病気でもない限り学校は休んではいけないと思い込まさ
   れている。だから、どうしても学校へ行けなくなったとき、腹痛とか発熱とい
   う症状を出す。」

  これら@Aから、わたしなりに考えたこと。
 引きこもり状態で子どもは、学校に行けない自分を責めていると考えられて
 いるが、血流が極端に少なくなっている状態なのだろう。

 勉強が遅れるから休まない方がよいと言う。しかし、記憶・思考機能が働か
 ない状態で登校させても、そこにいるだけで、勉強なんてできっこない。スト
 レスをつのらせるだけ。

 朝になると出る発熱や腹痛という症状は、脳からの指令ではないか。機能
 不全に陥っている脳が、その原因であるストレスをため込まないために、学校
 を欠席する正当な理由となりうる病気を一時的に作り出しているのではない
 か。

  B 精神科医の渡辺位さん。
   人間は、毒や腐ったモノを摂取すると、吐いたりくだしたりして、それらを
  体外に排出しようとする。これは生物としてのごく自然な反応であり、病気で
  はない。学校におけるさまざまなストレスによって押しつぶされそうな自分を
  守るために、学校から抜け出すことは、生物としての自然な反応であり、病気
  ではない。

 @の三井先生は、NHKでは、休養を主とし、已むを得ない場合に投薬など
の治療加えるという態度でした。この番組を見た考える会の方たちは、不登校を
病気として捉えてる点が許せないという感想を持ったと伝え聞いています。三井
先生、98年6月のフジTVの番組では、徹底した治療が必要という考えを前面
に出していました。前の番組への感想を、わたしは過剰反応だと思っていました
が、今度の番組を見て、考える会の方たちは本質を見抜いていたのかなと思い
ました。

  心の病気というと、精神病を連想する人が多く、だからこそ過剰に反応してし
まいます。でも不登校自体は病気ではなく、何らかの結果でしょう。@から考え
れば、脳の機能不全の結果となるでしょう。この機能不全を病気とみるかみない
かは、難しい問題です。

 大人には多くの場合有給休暇があり、疲れたら休めます。しかし学校の子ど
もたちは休めません。疲れたからという理由で休めば、「ズル休み」と言われ、非
難されます。勉強の遅れなども気にして、無理を重ねて登校し、生物としての本
能が働き出すまで追い詰められて、そして不登校になる。

  脳にこだわりすぎの素人考えですが、このような子どもの状況を理解すること
が、何よりも大切だと思います。
                                                                               
 
 
☆ 不登校 (3)辛いことから逃げている
 不登校を我が儘、サボり、怠けとみる傾向は、社会全体をみれば、まだまだ支
配的だと思います。息子Hが4年生の1月下旬から完全不登校となり、5年生の
5月頃だったでしょうか、バスで一緒になった給食配膳のおばさんに「いつまで
我が儘をさせておくんですか」と詰問されました。その時は、我が儘が不登校を
指すとは即座に理解できず、「家庭では、我が儘を言わなくなりましたよ」なんて
答えました。わたしが不登校を我が儘だと捉えていなかったからでしょうが。

 5・6年の担任からは、こんな風に言われました。「毎日学校に来てれば、嫌
なこともあるでしょう。それを乗り越えることによって、強くなり、成長して行くんで
すよ。辛いことに耐えるのも必要なんですよ」と。担任は、このことを子どもたち
によく言っていたそうです、双子のFが言うことには。ただし、「H君はまだ元気
を回復している途中だから無理だけど」という注釈をつけたそうですが。でも、子
どもたちもいろいろと感じるところがあったようで、たまに校門付近に現れるHに
寄ってきて話しかける子もいれば、遠くからズル休みしてるという感じで見つめ
る子もいました。

 5年生の東京見学に途中から合流し、宿泊研修には昼間の部だけ参加しま
した。すると「クラスの中で一番元気でした」と言われました。そういうときには元
気なんです、不登校児って。正確に言えば元気に見えるんです。久しぶりの仲
間たちですから、どう振る舞って良いかわからなくて、必要以上にはしゃいでし
まうんです。だから元気に見えるんです。でも本人は、不自然に振る舞うもんだ
から、すごく疲れるんです。帰宅してからはグッタリです。

 でも周囲の人には、あんなに元気なんだから、もう登校できるはずだと思える
んです。しかし子どもは虚勢を張ってたんです。ここんところを理解してやりまし
ょう。

 そもそも、心身を消耗させ、休養を余儀なくさせた要因のひとつは学校なん
です。その学校に、そう易々と復帰できるものでしょうか。その心情は、地下鉄
サリンの被害者 が地下鉄に乗れないという心情と大差ないと思います。こうい
う被害者に向かって「あんたは辛いことから逃げている」と安易に言えるもので
しょうか。

 さて、ここまでの議論は、学校は行かなければならない所という前提にたって
のものでした。でも学校って、行かなければいけない所なんでしょうか。

 日本国憲法および教育基本法では、親に対して、その保護する子女に9年
間の普通教育を受けさせる義務を課しています。これを受けて、学校教育法施
行令では、校長に、児童生徒の出席状況を把握せよ(19条、つまり出席簿をつ
けよということ)、出席状況が良好でなく、そのことに正当な事由ないと認められ
るときは、その旨を市町村教育委員会に通知せよ(20条)と命じ、教委には、保護
者に出席を督促する義務を課しています(21条)。かつて浜松市教育委員会は、
これらの規定に従って、不登校児童生徒の保護者に出席を督促する書状を送
付し、激しい反発を受けたことがありました。

 学歴偏重社会に生きる子どもたちは、学校とは行かなければならない所だと
考えています。そういう子どもたちが、自分にストレスを与える学校に対して、頭
痛・腹痛・発熱に訴えて、つまり生物としての本能に訴えて、登校を拒否してい
るのです。文字通り、体を張っての抵抗です。これって、欠席に対しての立派な
正当事由になると思います。

 つまり、不登校も法律上許されるということで、学校は行かなければならない
所ではないのです。さらに今の日本では、9年間の普通教育は学校でしか受け
られませんが、ホーム・エデュケイション等が認められれば、学校は完全に、行
かなければならない所ではなくなります。

 また学歴偏重社会に生きる子どもたちは、学校制度からはずれることが、普
通に人生を歩む場合に、かなりのハンディとなることを熟知しています。それで
も登校を拒みます。まさに人生をかけての抵抗です。

 このような不登校の子どもたちですが、彼らは辛いことに立ち向かうことを辞
めたわけではありません。辛いことに立ち向かう努力を、自分にストレスを与え
る学校に対してはしないということです。

 ようするに、不登校を辛いことから逃げていると捉えるのは、学校を絶対視す
る立場からのものなのです。学校を行かなければならない所ではないと捉える
ならば、学校は辛さに耐えてまで行く価値のある所ではなく、だから辛さに耐え
る必要はないのです。辛さに耐える努力は、もっと他の局面でしましょうというこ
とになるでしょう。
 
 
 
☆ 不登校 (4)医師のスタンス
 まだ不登校が医療の世界でも理解されなかった頃、心電図、脳波から心理テ
ストなどありとあらゆる検査を受けたと聞いています。2年前でも「まだ小学生な
のに胃カメラを飲ませられたんです」と涙ながらに訴えるお母さんに出会いまし
た。(2)で書いた脳の血流の低下云々は、こうした検査付けの中から発見された
のだろうと思われます。

 さて、医者にかかればほとんどの場合、何らかの病名をつけられて「治療」を
受けることになります。不登校と治療との関係が問題とされた事件がありました。
 『朝日新聞』1988年9月16日(東京本社夕刊)にこんな見出しの記事が出まし
た。
 「30代まで尾引く登校拒否症 早期完治しないと無気力症に 複数の療法
が必要カウンセリングのみは不十分」。
 筑波大(のち一橋大)の稲村博グループの研究成果としてでした。

 この記事は、たくさんの人々に衝撃を与え、あるお母さんは恐れおののき、子
どもの目に触れないよう、この新聞を隠したそうです。スクールソーシャルワーカ
ーの山下英三郎は『朝日』論壇(88年10月24日)において、「登校拒否は治療の
対象か〜病理としてのとらえ方に異議」を唱えました。親の会全国ネットは、この
ような記事を掲載する朝日新聞の見識に抗議しました。渡辺位グループは、こ
の記事には多くの危険性があることを指摘して、日本児童青年精神医学会の見
解を問い質した。同学会は委員会に検討を委託、委員会は2年に及ぶ調査を
経て、稲村グループの研究の不備・不当性を確認しました。

 この委員会に参加した石川憲彦は、われわれは「不登校に特別な治療は何
も行ってきていない。ただ、一緒に考え、共に遊び、お互いを尊重しあって、社
会的な環境を共に調整しあってきただけである。…治療にいそしむ稲村が不登
校の予後を悪いと感じているとすれば、ひょっとすると稲村の治療が予後に悪
い影響を与えている可能性があるのだ。[われわれが知っている予後の悪いケ
ースは]不登校そのものが問題なのではなく、不登校に対する周囲や社会の対
応の方に問題があったケースである」と述べている。(詳しくは『わが子をどう守
るか』学苑社247頁以下を参照)

 このように医師にも、治療積極派・消極派がある。(2)で触れた三井輝久は、
8月のTV番組では“光療法を駆使して昼夜逆転を直し”ており、積極派に分
類できるでしょう。

 親の会では、「昼夜逆転など気にすることはない。必要に迫られればいくらで
も早起きしますよ」と、軽くあしらわれているのに(ちなみに息子Hも逆転傾向が
ありましたが、隣人と犬の散歩をするようになると、いつの間にか早起きするよう
になりました。この顛末は、いずれ「隣人の厚意」として記します)。

 で、何が言いたいかというと、不登校自体は病気ではないが、神経症の症状
などがひどくなって医師などにかかる必要が生じた場合、彼らが積極派なのか
消極派なのか、われわれはそれを事前に知ることは難しい状況です。だから親
同士連絡を取りあって情報交換をすることが必要だと思います。地域の親の会
は、そんなとき頼りがいがあります。
 
 
 
☆ 不登校 (5)価値観を変える・変えない
 子どもが不登校になると、親は「子どもは学校に通うのが当たりまえ」というそ
れまで疑ってもみなかった考え方の検討を迫られる。そして親が「学校へ通わ
ない生き方もあるんだ」と考えられるようになると、子どもは安心して学校を休め
るようになる。親がこのように考え方を改めることを「学校絶対視観」ないし「学校
的価値観」から「学校相対視観」への転換、すなわち「価値観を変える」と捉え
て来ていると、私は理解している。

 ある講演会でカウンセラーの内田良子さんは、
    「親は価値観を変えなくてもイイんです。学校へ行かない生き方をしよう
   としている子どもの考え方を認めてあげればイイんです。」
と言われた。価値観を変えたつもりになっていた私には、ちょっと引っかかる言
葉であった。

 講演後の懇親会で、私が直面している問題=部屋の汚さが話題となった(私
が提起したのではないが)。
 一年ほど前に増築した息子の部屋は、足の踏み場もないほど乱雑なのだ。留
守の間に、換気や洗濯物の回収のために立ち入る。ドラエモンのように押し入
れで寝ているので、せめて畳を露見させて、布団を敷いて寝ろと繰り返し言う。
するとひどく不機嫌になる。それが当時の状況だった。

 内田さんは、子どもが激しく反発するのはそれだけ傷ついているからだと言わ
れた。
 それを聞いて私は、かつての内田さんの発言を噛みしめていた。神戸で将棋
の棋士である父親を中学生の息子が殺害したといわれる事件の際に「筑紫哲哉
のニュース23」に出演した時の発言である。
    「子どもの部屋に鍵をつけるかどうかが問題にされているけれど、私は鍵
   をつけるべきは親の寝室だと思います。それは、子どもに襲われないため
   になんです。親は、大人は自覚していなくても、ひどく子どもを傷つけてい
   るものなんですから。」

 そうか、私は息子の安住の地を荒らしていたのだということに、ようやく気づい
たのであった。私は、自分の部屋を仕事場として使うことに支障がない程度には
整頓しているつもりだ。それで居心地も良い。足の踏み場がなくても、息子にと
って居心地が良いのなら、それを認めてやろうと思えるようになった。

 そういう心境の帰り道、内田さんの冒頭の発言に続く言葉を反芻してみた。
    「親は、子どもに自分の価値観を押しつけなければ、自分の思い通りに
   子どもを動かそうとしなければイイんです。妻は夫にたいして、不登校を認
   めようとしないと不満を持っている方がたくさんおいでです。こういう場合、
   価値観を変えろと要求するのは、価値観の押しつけになりませんか。場合
   によっては自分の過去を、これまでの生き方を否定されると受けとめて、余
   計に頑なになってしまうことだってあると思うんですね。だから、学校に行っ
   た方がイイ。学歴はあった方がイイというあなたの考え方も認めるから、不
   登校という子どもの生き方も認めてあげてという方が、夫にとっても受け容
   れ易いんじゃないでしょうか。」

 さて、価値観を変える・変えないについてである。
 自分の価値観(生き方・考え方)を唯一絶対のものと信じていた者が、別の生
き方を認められるようになるということは、自分の価値観の絶対性が相対化され
たと言えるだろう。従来の固い信念が、少し揺らいだとでも言えばよいだろうか。
別の価値観を受け容れられるだけ、度量が広がったというべきだろうか。

 ともあれ、“別の価値観を受け容れられるようになった”という変化こそが重要
なのであって、その変化を指して価値観を変えた・変えないと議論することは、
さして重要ではないと思われる。
 
 
 
☆ 不登校 (6)私を変えた三つの言葉
 息子が小学4年生になる寸前の春休みに、元気の良い子どもたちが悪しき集
団をつくっていることをうかがわせるトラブルがあった。このように捉えた私は適
切なる指導を申し入れたが、重要な出来事とは捉えない新旧担任にはさしたる
方策もなく、わだかまりだけが残った。連休明けには、6年生でのいじめが発覚
した。他のいじめもすくい上げようと、親子別々のアンケートも実施され、簡単な
集計結果も公表されたが、教員集団として、また保護者集団として取り組むまで
には至らなかった。

 10月頃から4年生が荒れだした。元気の良い子どもたちが40代の女性担任に
逆らいだし、担任は鎮めるために暴力を行使した。障害を持つ子どもへのいじ
めもあった。そうした中で、息子のノートの文字が散々に乱れていった。大好き
だった曾祖母の死を経て、12月には手や髪を頻繁に濡らした。ことここに至り、
鈍感な私にも息子の異変が理解できた。年内は一応登校したが、1月中旬には
放課後に登校するようになった。その最後の日、支度を促す私に息子が言っ
た。
  「学校へ[一緒に]行く時のお父さんって、いつものお父さんと違う!
 幾度かのチャンスに動こうともせず、むしろ防げたはずの息子の不登校を引
き起こしてしまった学校。そんな学校に登校させようとしていたとは! 強烈な告
発であった。

 父親は、職場で不登校を切り出すことも出来ないと言われるが、私の職場に
は、カウンセラーを妻に持つ先輩がいた。春休みのトラブル以降、私は記録を
つけていた。ある程度まとまると、夫妻にも回覧してもらい、様々なアドバイスを
受けていた。5年生の2学期はじめ、その記録が途絶えた時期があった。間もな
く再開し、回覧に供したのだが、先輩が「Qさん、またゆとりが出てきたようだよ」
と言って渡したのに対し、奥さんは
 「Qさんも、やっと子どもに寄り添うようになったと思っていたんだけどな
と呟いたそうな。記録のために観察されていたのでは、息子もさぞ居心地が悪
かったことだろう。記録はフロッピーディスク2枚で中断されたままである。

 帰宅したらすぐ宿題を済ませる。決まった時刻に食事をし、入浴し、就寝す
る。小学校に入学すると、家庭でも学校と同じような日課表に基づく生活をさせ
ようとした。子どもは大変だろうなと多少の疑問を抱きつつも、私が出来たことな
んだから出来ないはずはないと。息子は宿題の取りかかりが遅かった。なかな
か集中できないこともあった。そのことを非難されて、だんだん萎縮していった。
そして不登校である。こんなことを思い出したのは、6年生の1学期に横湯園子
『不登校・登校拒否』(岩波ブックレット295)で、次の一節に接した時である。
  「いじけた子って、そういう子どもは家族の中でも不びんな子どもとは思
  われても、かわいがられなくなります」(42頁)。
 息子を可愛がってきたつもりだけれど、萎縮する姿を見て、不憫な子だとは
思うものの、あとは突き放してみていたことに思い至った。そうして、私の対応が
息子を萎縮させてしまっていることに気がついたのだった。

 何かのアンケートで「親をさすがだなと思ったことがあるか」という設問に対す
る息子の答えは「昔の辛い体験を話した時、涙を流しながら聞いてくれたこと」
であった。
   *『不登校新聞』98年11月1日号所収のエッセーの表記を一部手直ししてある。
 
 
 
☆ 学校の現実(1)期待と失望
  4年生の10月頃から、子どもたちの口からクラスの荒れが伝わってくるように
 なった。男女の場合には男子を、喧嘩の場合には先に手を出した方を叱るとい
 う担任のワン・パターンなやり方に、男子児童がキレたのであろう。担任に殴りか
 かった子、「クソばばあと叫んだ子には、暴力で対処したそうな。特定の女児*
 障害のある子へのいじめは、その子たちが泣くので担任に発覚し、やった子が
 叱責される。だから次には、泣かない子同士に喧嘩をさせるというように、殺伐
 とした教室風景であったらしい。
 
  4月の対応をみて、いつかこんなことになるという予感があったが、それが現
 実のものとなった。幾人かの親と連絡をとったものの、わが子が直接関わってい
 なかったし、4月以来のわだかまりもあったし、手をこまねいていた。そこへ息子
 の強迫神経症的行動と12月に入っての登校渋りである。様々な要因はあるもの
 の、クラスの荒れがその一つにあげられる。息子自身がやられるわけではない
 けれど、いつかやられるのではないかという恐怖の中、身をすぼめて生活してい
 たことがうかがわれた。
 
   息子を父母で送って行き、担任に面談を申し入れたが、放課後まで時間がと
 れないというので、校長と面談した。10月以来のクラスの様子を話し、「これは学
 級経営の失敗であるから、速やかに立て直してほしい」と申し入れた。校長は
 「なるほど、担任にうまく話してみましょう」と約してはくれた。
 
   その日の放課後、父母と担任が会った。把握した事実の一部を明かし、「息
 子がこうなったのも、クラスの荒れが一つの要因であると思う。先生も苦労されて
 いるようだから、保護者に実状を話して、協力を仰いだらどうですか」と言ってみ
 た。何かを感じてくれたと思った。息子を学校に戻すためには、まずクラスの立
 て直しをしなければという思いであった。
 
   その数日後、「中学のような教科担任制と違って、担任は四六時中児童と一
 緒にいる。そのわたしがいじめを目撃していないのだから、このクラスにいじめ
 は存在しない」と開き直った。校長・教頭にも会った。40代の新任教頭は、「4
 0過ぎのイイおっかさん(母親の意)先生に、わたしは何も言えませんよ」と正直
 にもらした。近所の退職校長は、「休み時間であっても校内を歩き回っていれば
 このクラスは様子が変だとわかるものだ。校内を見まわってはいないのだろう」と
 管理職の仕事ぶりを評した。
  
   ついに市教委事務局に学校教育部長を訪ねた。集めた資料を提示しながら
 @4年生が荒れており、しかし担任が開き直っていること、A特定の女児は3年
 生からいじめられており、当時の1年教室に逃げ込んだことがあった。1年担任
 が3年担任に告げても、「あの子は口が減らないから」でかたづけられてしまっ
 た。「いじめられて悲しかった」と記した3年2学期の作文が、3年末に返却され
 た。それでも母親は、下の子が入学するとあの担任に当たるので、今は我慢す
 るしかないと言っていること、B5月にPTA理事会(総会の下位にある議事機
 関)に持ち出された6年生のいじめに対しても、担任は親からみればいい加減
 な対応に終始していること、さらにC管理職の無力さ・無気力さも説明して、児
 童数180余名・職員数13名のこの小学校を立て直してほしいと訴えた。

   学校教育部長は早速校長を呼び、「校内運営が上手く行っていないようだが
 …」と問うも「そんなことはない。全員一丸となってやっている」との答えに、それ
 以上の追求はできなかったらしい。部長は「校長には、お宅との連絡を密にす
 るように言ったので、よく話し合ってほしい」と連絡してきた。先の退職校長は、
 「クラスに働きかけるのはあくまでも担任だし、担任には立て直す能力がなさそ
 うだから、いくら校長を詰問しても始まらないことを部長はよく知っているんだろ
 う」と解説し、「こうなったら、問題の担任三人を転勤させるしかないだろう。ただ
 校長がその三人を問題だと感じていなければ、異動の働きかけをしないだろう。
 問題だと思っても、異動時期にならない教員を無理に動かして恨みをかうような
 ことを敢えてやろうとする校長は少ない」と付け加えた。

   このように、当時のわたしの目的は、息子を学校に戻す前提としての“クラス
 のそして学校の立て直し”にあった。そのために動きながら、この小学校はまさ
 に最悪の状態にあるという思いを強くして行った。そのことを保護者に訴えたく
 て、年頭のPTA理事会(管理職と理事約40名が出席)で発言した。すなわち、
 
     「管理職は3年、教諭は7年で転勤して行くけれど、子どもや保護者は先
   祖代々この地に住み、この学校から巣立っている。PTA活動・学校行事と
   あらば黙って労力を提供している。そんな学区民の学校に対する思いをど
   のように受けとめているのか。その子どもたちが学校での苦境を訴えても、
   それを真剣に受けとめ、教員集団が一体となって取り組むことをしないあな
   た方は、子どもや親をないがしろにしているいるのではないか。」
 
 という観点から、担任三人と管理職を中心とする学校批判を展開した。
 
  その後の会議で保護者からの発言は全くなかった。校長は「今の話を聞いて
 いると、とんでもない学校のように聞こえるが、決してそんなことはない。子ども
 も教員も楽しくやっている。Qさんの子どもは、しょっちゅう集団登校に遅れてい
 る。これからは家庭との連絡を密にして行きたい」と発言した。校長は、「あんた
 は、だらしのない親なんだ」と言いたかったのだ。

   校長は翌日の職員会議で、「Qから家庭との連絡を密にせよとの要請があっ
 た」と述べたに留まり、詳細は伝えなかったようだ。学区には、わたしが学校批
 判をぶったという事実だけは伝わったらしい。「やりすぎだ。先生方が可哀
 相。」「もっとやってやれ。」そんな声が人伝に伝わってきた。わたしに直接ぶつ
 けられた批判には、PTA前会長と広報部の同僚の「子どもの育て方を間違えて
 不登校になったのに、学校を批判するのは間違っている」というものと、身内の
 「子どもが学校に入ったら、ベストのコンディションで遅刻させないで送り出すの
 が親の義務よ。そういう親の勤めを果たせない者が学校を批判するなんて、とん
 でもないことよ」というものがあった。


   前年12月中旬より、わたしたちは児童相談所のカウンセリングを受けていた
 が、2月下旬、市教育センター教育相談担当者に非公式に面会した。まず、前
 もって送付しておいた学校批判の資料が机に並べられ、「教員の学級経営に対
 しては指導室が対応します。学校経営については学校教育課の管轄です。セ
 ンターでは相談にみえた子どもをケアします。したがって、この資料は、お子さ
 んが当センターの相談にはみえないのですから、お返しします」という言葉とと
 もに、こちら側に押しやられてきた。

  それでも諦めきれずに、一連の経過を述べ、先の@〜Cを繰り返し、さらに
 4年生の中に帰宅すると衣服をすべて着替え、髪の毛を抜く男児がおり、この子
 もクラスの荒れの被害者だと思われることを訴えた。学級王国に閉じこもるバラ
 バラの教員を問題意識を共有する教員集団に仕立て上げるにはなんて話にし
 ばらくは付き合ってくれたが、ついにこう言った。

  「他人様の子どものことは、今はイイじゃありませんか。貴方のお子さんが強
 迫神経症で苦しんでいるんだ。何よりもご自分のお子さんを救ってあげなさい
 よ。」
  「校長が何と言おうと、イイじゃありませんか。登校を続けている双子の弟さん
 にとって今一番大切なことは、お父さん・お母さんに心ゆくまで甘えることです
 よ。集団登校や遅刻なんてとるに足りませんよ。」

  淡々とした語り口であったけれど、感情を秘めた言葉であった。これを聞いた
 ことで、最後の手段と考えていた「東京弁護士会子どもの人権救済センター」へ
 の救済申立を断念した。そして、学校へ遅刻しないで通うことよりも、もっと大切
 なことがあることも知った。しかし、手や足を洗い、髪をもぬらす息子の行動の意
 味を理解するまでには、まだまだたくさんの時間が必要であった。

  なお、この相談員はこうも言った。
    「貴方は、しきりに教員集団という。確かに学校教育では、『担任が一人
   で教育するのではない。すべての教員が問題意識を一にして、教員集団
   として子どもに接するのだ』と言われているけど、そういう教員集団が形成
   されている学校は、ほとんどありませんよ。わたしの経験からいって、実験
   校で選りすぐりの教員を集めた学校くらいでしょう、貴方の言うような教員
   集団ができるのは。」

  これを聞いて、子どもは親が守るしかないと感じた。
  なお、期待された年度末の異動では、7年勤務した息子たちの担任ともう一
 人が転出し、残る問題教員二人は、翌々年6年目で転出した。「管理職は一校
 に3年」という教育長の方針により、校長は異動しなかった(しかしその教育長
 は、半年後に年度半ばで死亡した)。
 
 
 
☆ 学校の現実(2) 担任との対立
  学校の現実〜(1) 期待と失望〜を読まれたみなさんは、交渉の相手をアッサ
 リと、次から次へと変更し、結局目に見える成果がないではないかという感想を
 持たれたことだろう。障害児関係者にこの話をしたら、いとも簡単に、「交渉の仕
 方がまったくわかっていない」と切り捨てられた。この指摘は、ある面では当たっ
 ていると思う。成果をあげるためには、一度は管理職と4年担任と一緒に、話を
 しても良かったかなということと、市教委事務局に文書で申し入れるべきだった
 ということ、そして保護者から情報を集めるときに、市教委に情報を提供するこ
 との同意をとっておくべきだった(でもそうしたら、わが子などへの不利益を考慮
 して提供してくれなかったかも知れない)ということが考えられる。

  4年担任は、無能だった(詳しくは「学校の現実〜(1))を参照)。1・2年生ばか
 り担任し、低学年に対してさえ、怒鳴り散らして抑えつけていたそうだから、最も
 難しい学年と言われてきている4年生(1)など担任させるべきではなかったのだ
 「10年ぶりだ」と自分で言っていた。昔を思い起こすと、教員には低学年ばかり
 を担当する者と、中学年や高学年ばかりを担当する教員がはっきりと分かれて
 いた。そういう教員の中にも「自分の専門とする学年ではないけれど、わが子と
 同じ学年を担当してみたい」という希望があったと聞く。それから推測すると、こ
 の4年担任も「わが子と同じ、あるいは近い学年を担当してみたい。自分はその
 学年の専門ではないけれど、親が大人しい農村地帯の学校だから、何とかなる
 だろう」という考えていたと思う。そして、そういう教員の能力を見抜けない管理
 職も無能だったと思う。ただ、人材不足でコマがいなかったという面もあるし、全
 員に希望通りの学年を担当させ、職場の和を優先させたという面も考えられる。

  また、わたしが問題教員の一人と記しているある担任は、5年6年と持ち上が
 って、いまでいう学級崩壊を起こした。それなのにこの人は、市教育センターで
 は教育相談のスペシャリストという評価を受けていた。同センターの『研究紀
 要』にリポートを何本も書いていた。いじめの渦中から救い出せなかった児童
 を、立ち直らせたというような内容であった。本当に驚きだった。

  だからこそわたしたちは、5年担任にまともな教員を当ててもらおうと考えた。
 この学校には、雪の日に子どもたちと外で遊んでいる教員が一人だけいた。だ
 から、その30代の女性教員にねらいをつけ、校長に申し入れ、彼女にも「来年
 は5年を担任してください」と要望し、彼女の友人からも薦めてもらった。しばら
 くして彼女は、意欲をみせてくれた。もちろん校長にも申し入れた。その時には
 「担任を誰にするかはわたしの権限であり、保護者の思い通りにはならない」と
 言っていたが、結局、希望が叶った。これでクラスを立て直してもらえれば、息
 子も登校できる条件が整備されると期待が膨らんだ。


  5年担任は、始業式から積極的に動いて、子どもたちの様子を観察し、わた
 しのつかんでいた状況が発生していたとしてもおかしくない状態であると連絡し
 てきた。わが意を得たりとばかりに、手始めに4学年4月からの記録を整理して、
 読んでもらうべく渡した。秋からの子どもたちの様子を中心にしたものである。わ
 たしは、それがクラスの立て直しに役立つものと信じていた。4年3学期、級友か
 ら毎週手紙が来た。「いじめはもうないから、出ておいで」という内容だった。い
 じめの張本人たちがそう書いているのだ。だからわたしの記録を参考にして、彼
 らの意識を「いじめはもうしないから…」に変えて欲しいと考えたからだ。「そうな
 れば息子が学校に戻るための条件がひとつクリアされる」、その一念であった。

  わたしがそういう希望を出したのは、説得に一役かってくれた教員が、荒れす
 さんだクラスを新たに担任し、それを立て直した話を聞いていたからだった(2
 5年担任は、その人と仲がいいし、集団作りの研究会にも参加して積極的に取
 り組んでいるそうだし、アドバイスも受けられるだろうし…などと考えたからであっ
 た。

  ところが帰ってきた返事は、前会長と喧嘩するな、子どもを敵視するな、こん
 な記録をつけるなというもので、わたしが考える本筋からハズレたものだった。
 結局、“子どもたちの徹底的な反省=意識改革”はどこかへとんでいってしまっ
 た。


  それでも新担任は、息子との信頼関係を築くべく、週に一回家庭訪問に来、
 庭で遊んだり散歩したり、友人の家へ一緒に行ったりした。息子もすっかりなつ
 き、8月には家族にも与えない大切な食べ物を賞味させるまでになった。6月の
 宿泊学習に一部参加、9月の運動会には練習から本番まで参加(この時期には
 教室にも入っていた)、10月のバス旅行に途中から参加した。昼休みや下校時
 には、校庭、昇降口、校門まで出かけていた。

  そうなると何とか登校させたいという意欲が、担任にちらつきだしたのだろう。
 息子は次第に担任を敬遠するようになった。2学期終業式には昇降口で通知
 票を受け取ったのが、3学期始業日には、提出に行くのが嫌だと言う。夕刻、
 「欠席により評定不能」と記された通知票をわたしが返しに行った。
   担 任「いまから連れて来てほしい。嫌なら、わたしが迎えに行く。」
   わたし「来たくないから、来ないのだ。無理強いはやめてほしい。」

  そこで校長室で話し合うことになった。
   わたし「来る気があれば一緒に来ている。来たくないから来ないのだ。」
   担 任「いや、もう登校できる状態だ。父親が登校させようとしないから、
      来ないのだ。」
   わたし「本人がその気になるまで待つ。」

  この繰り返しであった。
  われわれに背を向けて仕事をしていた校長は、仕事が終わったらしく、話に
 割って入って来た。そして、息子の不登校の真の解決は何かという話になった。
 担任は「再登校が、わたしにとって一番大切なこと」と言った。これに対して校長
 は、「いま息子が遠避けている双子の片割れとの仲直りが一番大切」という認識
 を示した(この問題は詳しい説明を必要とするので、後日記す)。担任は承伏で
 きないようであった。だから後日改めて話をすることになった。

  2月のその話し合いでは、4月以来、立ち消えになっていた“子どもたちの反
 省・意識改革”を持ち出した。担任は、次のように言った。
    「お父さんは、そういうことをわたしに望んでいたのですか。やっとわかり
   ました。」
  これを聞いて、「オイオイ、4月の記録の提出は一体なんだったのだ」という脱
 力感におそわれてしまった。と同時に、あの時点で話し合いをしておくべきだっ
 たという後悔の念も湧いた。

  担任は続けて、次のように言った。
    「わたしはその場にいなかった(4年時の担任ではなかった)から、4年の
   時のことを思い出させたり、反省させることなどできない。昔の嫌なことを子
   どもたちに思い出せても、イイことはひとつもない。だからそんなことはした
   くない。」
  さらにやりとりを重ねる中で、次の発言が飛び出した。
    「わたしだって、好き好んで毎週家庭訪問をしていたわけではない。仕
   事だと思うから、幼子二人を待たせても、やってきたんだ。今日だって、そ
   うだ。そうやって再登校をめざしてきたのに、あなたは協力しようとしない。
   …わたしのやり方が気に入らないなら、どっか他の学校を探してくれ。」

  親から登校を促すことはしないと宣言して終わったが、請い・請われた担任と
 の後味の悪い決別だった。担任は感情を素直に被瀝しただけであろう。しかし
 公立小学校では学校を選べないのだから、その教員が他へ行けとは言えない
 はずだ。そんなことは百も承知だろう。そこまで言うからには、馘首を覚悟しての
 発言かも知れない。あるいは来年度は異動するのだろう。少なくとも6年への持
 ち上がりはあるまいと予想した。この発言の責任を問おうという意欲は不思議と
 湧いてこなかった。不登校を考える、親と子どもの身になって考える絶好のチャ
 ンスなのに、教員として脱皮できる絶好のチャンスなのに、惜しいことだと家族
 では話し合っていた。また、他の教員から、「まだ再登校させられないの」と揶揄
 されているのだろうとも予想した。のちにこの予想が的中していたことが判明す
 る。後日、校長にこの問題発言を伝えると、ハッハッハッと笑って誤魔化した。
  帰りがけに教員室を覗くと、校長・教頭・教務主任・教諭一名・事務主事が残
 っていた。一旦緩急あれば、助っ人に馳せ参じるつもりだったのだろうか。


  5年生のこの年度も、わたしは、PTA広報部に席を置いていた。しかし年6回
 の理事会の開催が日曜日から土曜日午前に変更されたことで、ほとんど参加で
 きなくなった(出席できた2度の理事会の出席率は、前年度のほぼ百%が60%
 へと下がっていた。行事の開催は日曜日であった)。広報でも、企画もリポート
 を提出してみたが、学校に敵対的だとして採用されないことがあったし、最終号
 の執筆原稿は「会員からの投稿」としてかろうじて残ったのだった。この年度に
 は前年度のようないじめの発覚もなかったことから、理事の盛り上がりもなかっ
 たし、「学校のことはすべて学校にお任せする」という会長の姿勢も影響してい
 ただろう。


  いよいよ4月、6年生の始業式。なんとこの担任は、持ち上がっていたのだっ
 た。
  双子の片割れは、入学以来無欠席を続けていたが、そのころ、角膜をえぐる
 ような激しい瞬きを繰り返していた。家庭では、どうしても不登校児に目がいっ
 てしまうことから来る諸々のストレスから生じるチックだと理解していた。

  それが中学になって、「6年の時は理不尽な扱いばかり受けていた。たとえ
 ば、クラスメートと諍いがあると、教員の視点で事実を説明し、その結果みんな
 から批判された。当時は、事実はそうではないと反論するだけの度胸がなかっ
 たから…」と言う。団体行動が苦手だったから、きっかけはどこにでもあっただろ
 う。あるクラスメートから「6年の時、オマエひとりで怒られていたな」と指摘された
 ことをきっかけに、当時を振り返ってみての結論だという。5年生のはじめには、
 「どうしても不登校児に目がいってしまうけど、登校している方にも十分目をかけ
 てください」と言い、そのアドバイスに感謝したものだった。そんな担任だった
 が、親が憎けりゃ子どもまで…という気持ちだったのであろう。チックの要因は、
 ここにものあったのだ。

  こうしたことに気づいてやれなかった不明を恥じるが、よく不登校にならなか
 ったものだと思う。そう問うと、「あの頃は、意地でも休むもんかと思っていた。勉
 強も良くしたと思うけど、辛かった」と答えた。わたしは楽しんで勉強していると
 ばかり思っていたのだった。


  この年、市教育センター内に適応指導教室が開設され、連休明けから、バス
 と電車を乗り継いで1時間の道を通いだした。「この子たちは特殊な子」「早く学
 校に戻ってほしい」と親に向かって言うなど、スタッフの不登校理解・対応には
 不適切なものが多かった。しかし中学生10名ほどの中のたった一人の小学生と
 いうこともあって、時に可愛がられ、時にいじめられ、人間理解を深めっていっ
 たようだ。「ぼくはセンターの子だ」と言い、学校行事を見学はしても参加はしな
 かった。


  PTA役員にはならなかったけれど、学級懇談会には出席して、息子の現状
 を説明した。担任は子どもたちに「辛いことから逃げてばかりではいけない」と言
 っていたそうなので、不登校をそのように理解していたと思う。親も然りである。
 そのような理解・雰囲気の場に置いて、「元気にセンターに通っている」と話して
 も、どう反応してよいのかと戸惑っているように感じられた。所用のため中座した
 時、何気なく振り返った妻は、みんなが大きく息を吐き出すのを見たそうな。わ
 れわれはそのような存在だったのである。


  息子たちが卒業したその3月、4年勤務した校長と6年勤務した担任が異動
 していった。


   (1) 戦前から4年生は心理的にも教科的にも重要な時期であると考えられており、最も
    力のある教員を配してきた。だから学校訪問の視学は、まず4年生の授業を視察し、
    その授業ぶりからその学校の教員のレベルを推測したという。これは妻が調べてきたこ
    とであるが、出典は不明。
     最近まで、中学年の担任には新卒者を配することが広く行われており、その点で、
    中学年軽視という印象を持っていた。新卒者がほとんど採用されない状況では、これ
    までの慣行はどのように変化して行くのだろう。
   (2) あるクラスでは、級友の背中に鉛筆の芯を突き立てる行為が平気で行なわれるよう
    な荒んだ雰囲気であった。そんな中で一人の大人しい男児の表情がどんどん暗く沈
    んでいった。見かねた母親が低学年時の担任に相談し、その教員に次年度の担任を
    してくれるよう求めた。度重なる要請に彼女はその学年の担任を希望し、担任となった。
    彼女がまずやったことは、前学年時に子どもたちの間で行われたことを総ざらいするこ
    とだった。しかしそれは、どんなクラスにしたいかを述べさせる方法で行われた。「いじ
    めのないクラス」とくれば、「そうか、いじめがあったんだ」という具合に理解していった。
    そうした作業を進める一方で、新聞記事などを素材に様々な事件に対する彼女の考
    えを伝えていった。「善悪の価値判断ができる集団を作ること」、これが彼女のポリシー
    である。低学年時に培った信頼の絆があったこともあって、クラスは短期間で落ち着き
    を取り戻し、家庭訪問などの個別指導をする必要もなかった。
     こうして子どもと親には喜ばれたものの、一人だけ彼女を恨む人間がいた。前担任
    だった。その後、教員間では様々な確執があった。しかし彼女にはそれらを跳ね返す
    信念と親と子どもたちに支持されているという自信があった。
     彼女に対する教員の評判は極端に分かれる。「彼女のもとで、自己主張を目一杯身
    につけてきた子どもたちに学校のルールを教え込むのは、大変な労力がいる」という
    者が多い。この言葉からわかるように、彼女は自己を表現する力をつけさせることを主
    眼とし、それを前提に集団を作って行こうとする。しかし学校のルールをまず身につけ
    させ、そこから逸脱した者を指導しようとする多くの教員にとっては、どうにも邪魔な存
    在なのだ。
     息子たちの新担任には、この彼女のような営みを期待していた。学級崩壊をきたし
    た直前の担任は転出しており、新担任にとっての障害は少ないように思えたのだが…。
  * 本稿は、ある人へのメールに大幅に加筆し、タイトルを変更してある。99.4.15 脱稿。
 
 
☆ 少年法改定論議に欠けるもの
  わたしの印象では、神戸の酒鬼薔薇事件や栃木の女教員刺殺事件など中学
 生の犯罪がセンセーショナルに報道されて以来、少年法改定の機運が醸し出
 されていったように思う。メディアは@「加害少年はたった2年で少年院から出て
 きてしまい、罰が軽すぎる。もっと厳しく罰するべきだ」、A「少年の凶悪犯罪が
 増えている。それは少年法が犯罪の抑止力たり得ていないからだ」、B「被害家
 族には事件の詳細も知らされない。加害者の人権が尊重され過ぎている」など
 俗耳に入りやすい言葉をならべ、それがあたかも現行少年法固有の問題であ
 るかのように、書き立てたのであった。

  これに対して、@’少年法の処分は犯罪の重大さに応じた刑罰ではなく、少
 年の更生を目的としており、更正の成果は上がっていること、A’犯罪数の増加
 というけれど年齢により、罪種によって傾向が異なっており、一概には言えない
 厳罰化に転じたアメリカでは逆に少年犯罪が増加していること、B’被害者の感
 情や各種損失に対するケアが不備であったが、これは少年法固有の問題では
 ないこと、加害者の情報提供も被害者に対するものと世間一般(メディア経由)に
 対するものとでは、質量ともに差があること、少年事件には冤罪事件が多いが、
 これは少年司法において加害少年の人権が保障されていないことから生じてい
 ることといった反論を、積極的・実証的に取り上げるメディアはなかったように思
 う。

  冤罪の多発に関する現行少年法の問題点としては、弁護人・附添人の選任
 率が低いこと、警察官の無理な取調、予断を抱きやすい審判手続があること、
 その他にも裁判官の忌避申立が明文化されていないこと、保護処分決定後の
 上訴や再審請求が著しく制限されていることなどが主張されてきた。これらをさ
 しおいて、条件付きとはいえなぜ審判への検察官関与なのか、なぜ刑事責任年
 齢の引き下げなのか。

  少年審判とは「少年が『非行』という事態を招いてしまった自分と自分を規定
 している『状況』をどう乗り越え、変えていくかという大事業をスタートさせる契
 機」であり、それを少年自身の言葉で語らせることに意義があり、「たんなる『裁
 き』の場ではない」(池口論文『NETWORK NEWS』76号(98年7月号)10頁)。
 審判の手続自体が更正への第一歩となっている。そこに検察官が関与すれば、
 審判が「有罪か無罪かを争う」成人の裁判過程と同様なものに変質し、その本
 来の機能を果たせなくなる可能性が大きい。

  酒鬼薔薇事件被害女児の母親は、「透明な存在」だと思い込んでいる少年を
 救うことがこの事件の解決だと述べたと聞くが、このような非行少年を受けとめる
 ・支えるという視点こそが少年司法の理念でもあろう。少年法を改定するのであ
 れば、こうした視点からこそ問題点を抽出し吟味すべきであり、その点で今回の
 改定作業は視野狭窄に陥っており、なおかつ拙速に過ぎると思う。
 * 本稿は千葉こどもサポートネット機関紙『NETWORK NEWS』82号(99年2月号)に掲載したものの表記を一部手直 ししてある。
**少年法は、2000年秋の臨時国会で、結局改定されてしまう。法の適用状況に目をこらす必要がある。